動 画
あらすじ
「花山院の出家」は、歴史物語『大鏡』に収録されている物語の一つです。この物語は、当時の右大臣であった藤原兼家が、息子の一人である「粟田殿(藤原道兼)」を使って、花山天皇をだまして出家させるという内容です。この時代、出家すると政治的な力は失われ、「世俗」と切り離された存在になると考えられていました。そのため、花山天皇も出家後は「花山院」と呼ばれ、政治の表舞台から退場します。また、非常事態が発生した時、陰陽師の安倍晴明は式神から花山天皇が出家したと知らされます。このエピソードは、安倍晴明と式神の話がさりげなく語られる面白いお話でもあります。このように、「花山院の出家」は、政治と宗教、そして超自然的な要素が絡み合った物語となっています。
本文と問題
あはれなることは、おりおはしましける夜は、藤壺の上の御局の小戸より出で させ給ひ けるに、有明の月のいみじく明かかり ければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ。」と仰せられ けるを、「さりとて、とまらせ給ふ べきやう侍らず。神璽・宝剣渡り給ひぬる には。」と、粟田殿の騒がし申し給ひけるは、まだ帝出でさせ おはしまさ ざりける先に、手づから取りて、春宮の御方に渡し奉り給ひてければ、帰り入らせ給は むことはあるまじく 思して、しか申させ給ひ けるとぞ。
問題1: 「あはれなることは~と仰せられけるを」の部分からどんなことが推測できるか?
答え1: 物語の主人公が夜間に藤壺の上の御局から出てきて、有明の月が明るく輝いていることを見て、「これが証拠だ」と言っていることが読み取れる。これは「何か重要な事実や情報を確認したか、または何か重要な決断(出家)を下した可能性」を暗示している。
問題2: 「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍らず。神璽・宝剣渡り給ひぬるには。」と、粟田殿の騒がし申し給ひけるは、まだ帝出でさせおはしまさざりける先に、手づから取りて、春宮の御方に渡し奉り給ひてければ、帰り入らせ給はむことはあるまじく思して、しか申させ給ひけるとぞ。」の部分からどんなことが分かるか?
答え2: 主人公が神璽と宝剣を手に取り、春宮の方に渡したことがわかる。これは、何か重要な役職や地位の移譲を示している。(花山院の退位)
さやけき 影を、まばゆく思し召し つるほどに、月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり。」と仰せられて、歩み出でさせ給ふほどに、弘徽殿女御の御文の、日ごろ破り残して、御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来 なむ。」と、そら泣きし給ひけるは。
問題: 「さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに」の「思し召しつる」を文法的に説明せよ。
答え: 「思し召しつる」はハ行四段活用の動詞「思ふ」の尊敬語「思し召す」の連体形「思し召し」に、完了の助動詞「つ」の連体形「つる」がついた形。
問題: 「わが出家は成就するなりけり。」の「なりけり」を品詞に分解せよ?
答え: 「なりけり」は断定の助動詞「なり」の連用形で、「けり」は詠嘆、終止形。
さて、土御門より東ざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明が家の前を渡らせ給へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝おり させ給ふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せ む。車に装束疾うせよ。」と言ふ声聞かせ給ひ けむ、さりともあはれには思し召しけむ かし。「かつがつ、式神一人内裏に参れ。」と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後ろをや見参らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり。」と答へけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。
問題:「参りて奏せむ。」の「奏せむ」は、誰から誰に対する敬意か?
答え:「(晴明が)帝の前に参上し、(帝おりさせ給ふと見ゆる天変を)申し上げよう。」と言う意味。したがって、この敬意は安倍晴明(会話主)から帝への敬意。※「奏す」は「帝に申し上げる」という意味の謙譲語(絶対敬語)
花山寺におはしまし着きて、御髪下ろさせ給ひてのちにぞ、粟田殿は、「まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参り侍らむ。」と申し給ひければ、「我をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれに悲しきことなりな。日ごろ、よく、「御弟子にて候は む。」と契りて、すかし 申し給ひけむが恐ろしさよ。東三条殿は「もしさることやし給ふ。」と危ふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺よりぞうち出で参りける。寺などにては、「もし、おして人などやなし奉る。」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける。
問題:上の段落で花山天皇はどんなことに気づいたのか?
答え:花山天皇は自分がだまされたことに気づいた。花山天皇は、藤原道兼と共に出家することを決め、元慶寺に向かったが、元慶寺に着いた後、道兼は父の藤原兼家に報告すると言って出家せず寺を出て、戻ってこなかった。そこで、花山天皇は自分が騙されたことに気づいた。この出来事は「寛和の変」と呼ばれる。
口 語 訳
お気の毒に思いますことには、(天皇の位を)お下りになられた夜は、藤壺の上のお部屋の小戸からお出になられたところ、有明けの月が大変明るかったので、(花山院天皇が)「(これでは)目立ちすぎることよ。どうしたものだろうか。」とおっしゃったのですが、「そうはいっても、(出家を)取りやめなさることができるものではございません。(天皇の位に在位している証である)神璽・宝剣が(すでに皇太子へと)お渡りになりましたので。」と粟田殿がせきたて申し上げられたわけは、まだ花山院天皇がご出発にならなかった前に、(粟田殿が)自ら(神璽・宝剣を)取って、皇太子の御方にお渡し申し上げなさっていたので、(花山院天皇が屋敷へと)お帰りになられるようなことがあってはならないとお思いになって、そのように申し上げなさったとのことです。
明るくてはっきりしている月の光をまぶしくお思いになっている間に、月にむら雲がかかって、少し暗くなったので、(花山院天皇が)「私の出家は成し遂げられるのだなあ。」と仰られて、歩いてお出になるときに、(花山天皇は)弘徽殿の女御のお手紙で、普段破り捨てずに残して、肌身離さずご覧になっていたものをお思い出しになって、「少しの間(待っておれ)」とおっしゃって、(屋敷の中に)取りにお入りになられたそのとき、粟田殿が「どうしてそのように(お手紙を持って行こうと)お思いになられたのですか。今が過ぎれば、自然と(人の目を避けて出て行くのに)支障もでて参るに違いありません。」と嘘泣きをなさったのです。
さて、(粟田殿が)土御門から東の方角へと(花山院天皇を)お連れ出し申し上げなさったところ、安倍晴明の家の前をお通りになさると、(安倍晴明が)手を激しく、ぱちぱちとたたいて、「天皇がご退位なさると思われる天の異変がありますが、すでになってしまったと思われます。(宮廷へと)参内して奏上しよう。牛車の支度を早くしなさい。」という声をお聞きになられたであろう(花山院天皇のお気持ちは)、そう(ご自身で出家を決められた)はいっても心引かれることとお思いになられたでしょう。「ひとまず、式神が一人、御所へ参内しなさい。」と(安倍晴明が)申したところ、人の目には見えない何かが、戸を押し開けて、(花山院天皇の)御後ろ姿を見申し上げたのでしょうか、(式神は)「たった今、ここをお通りになっていらっしゃるようです。」と答えたとかいうことです。安倍晴明の家は、土御門大路と町口通りとが交差する場所にあるので、(花山院天皇が向かう花山寺への)お道筋だったのでした。
(帝が)花山寺にご到着になられて、ご剃髪なされた後に、粟田殿は、「退出して、(父である)大臣にも、(出家前の)変わらない(自分の)姿を、もう一度見せて、かれこれと(天皇と一緒に出家する)事情を申し上げて、必ず(戻って)参りましょう。」と申し上げましたところ、(帝は)「私をだましたのだな。」といってお泣きになられました。気の毒で不憫なことでございます。(粟田殿は)常々よく、「(一緒に出家して、帝の)お弟子としてお仕え申し上げましょう。」と約束していて、(そうやって帝を)おだまし申し上げなさったとかいうことが恐ろしいことでございます。東三条殿(粟田殿の父=藤原兼家)は、「万が一、(帝と一緒に)出家することがないのではないか。」と危惧して、(帝と一緒に出家させないようにする)そのような思慮分別のある者たちや、なにがし、かがしという優れた源氏の武者たちを、護衛につけられたのです。(その武者たちは)京の辺りでは隠れて(同行し)、堤の辺りからは現れて参りました。花山寺では、「もしや、無理矢理に誰かが(粟田殿を)出家させ申し上げるのではないか。」といって、一尺ほどの長さの刀を抜きかけて見張られたのです。