『石清水物語』…鎌倉時代中期に成立した擬古物語。作者不詳。二巻から成る。東国の武士である伊予守(いよのかみ)が主人公。彼は木幡の地で美しい姫君を見て、一目惚れする。しかし、伊予守が中納言との争いに破れ、最終的に姫君は老齢の中務宮に嫁ぐ。その後、帝が暴力的に介入し、姫君を拉致幽閉する。悲しんだ伊予守は出家し、後に往生する話。
- 伊予守(いよのかみ):伊予守は武士であり、姫君に思いを寄せています。彼は八幡信仰を持ち、石清水八幡に恋の成就を祈願しています。姫君が宮中に入り、伊予守は病にかかります。
- 姫君(木幡の姫君):姫君は異母兄の秋の君と、伊予守から思いを寄せられています。やがて入内が予定されますが、伊予守と契りを結び、入内は取り消されます。その後、彼女は老いた中務宮の後妻となり、最終的には皇帝の寵愛を受け、女御(高位の妃)にまで昇進しました。
この物語は、伊予守と姫君の運命的な愛と、現世で結ばれないが来世での一蓮托生を願う悲恋を描いています
本 文
※リード文と下の注釈をよく読んでください。なお、口語訳はあくまでも参考程度に考えてください。
《リード文》伊予守は幼い頃、継母である尼上のもとをよく訪れ、尼上のもとで暮らす姫君とも親しくしていたが、成人した後は姫君と会うこともなかった。ある時、尼上を訪ねた伊予守は成長した姫君の 姿を垣間見て、その美しさに心奪われ、思い乱れる。以下の本文は伊予守がその思いを隠して尼上と話すところから始まる。
来し方行く末思ひつづけられて、ながめられぬれど、さらぬさまにもてなして、「尼上の方へ参りて待りつれど、見えさせ給はざりつる」と言へば「御兄人の中納言殿より、『うつほ』の絵、参らせ給へるを、言葉読む役にかかりて久しかりつる」と、何心なく言へど、聞く人は、心は心として、胸のみ騒ぐを静めて、「そもそもいかにして、かくとは知られ奉り給へるにか」 と問へば、わが心にうとからず、隔てなきもさるものにて、かの御身にもよろづ頼もしき蔭には、これをのみこそして過ぐい 給へば、あらぬさまに言ひ隠しても、おのづからあることは洩れ間きて、隔てありけると思はれんもあいなかるべければ、おぼえなかりしほどに見奉り給ひて、言ひわたり給ひし春のことよりうち始め、ありのままに語り聞かすれば、「あやしうも踏み迷ひ給へる緒絶えの橋かな」と 、ほほ笑みたる、言はん方なく愛敬づきて、ものをば言ひながら心は空なれば、紛らはしには、この御ことに耳とどめて、のどかにゐたれば、めづらしくおぼえて、殿ののたまへることなど語り出でつつ、「いつしか対面も心もとなげにのたまひしを、宮の失せさせ給ひて、よろづも思し立たぬさまになん。
伊予守は、これまでのことやこれからのことを自然と思い続けて、ついぼんやりと物思いに沈んでしまいましたが、何でもないようにふるまって、「先ほど尼上のお部屋に参上しましたが、お見えにならなかったので、改めて参上しました」と言いました。すると、尼上は「姫君の御兄上の中納言殿から『うつほ物語』の絵巻を差し上げられたので、私はその文章を読む役目を受け持って、姫君のそばで長い時間が経ってしまいました」と何の気もなく言いました。それを聞いた伊予守は、思い乱れる気持ちを落ち着かせて「それにしても、どのようにして姫君が関白の娘だと関白家に知られたのでしょうか」と尋ねました。尼上は、伊予守を疎遠に思うことなく、うちとけているのはもちろんのことで、姫君の生活にとっても頼りになる後ろ盾として伊予守だけを頼りにして過ごしていました。事実を隠しても、自然とどこかから伝わってしまうので、心の壁があったと思われるのもつまらないことだと考えました。思いがけない時に中納言が姫君の姿を見て、恋文を贈って求婚し続けた春頃の出来事をはじめとして、中納言や関白殿が姫君の存在を知ることになった経緯を事実のとおりに語りました。伊予守は「不思議にも足を踏み入れて迷ってしまった緒絶えの橋だなあ」と微笑みました。その表情は言いようもなく魅力的で、心は姫君を思って上の空でした。その心を紛らわすために、姫君の話題に耳を傾けてのんびりと座っていると、尼上は関白殿がおっしゃっていたことなどを語り始めました。「関白殿は、姫君と早く対面したいと待ち遠しいとおっしゃっていましたが、正妻である宮がお亡くなりになって、まだいろいろなことについて思い立たない様子です」と。
設問1
「心は心として、胸のみ騒ぐを静めて」とあるが、ここで「心は心として」とはどのような意味か、説明しなさい。
設問2
「あやしうも踏み迷ひ給へる緒絶をだえの橋かな」とあるが、この表現が示す意味を答えなさい。
答 え
設問1: 自分の心は動揺しているが、それを表に出さずに冷静を装うこと。
設問2:予期せぬ出来事や困難な状況に直面し、道に迷ってしまうことを比喩的に表現している。
『御忌み果てば、迎へ奉らん』とて、いつとなく埋もれ木にてのみ過ぐさせ給ひしに、かく知られ奉りて数まへられ給はんは、いとうれしけれど、片時去らず慣らひ聞こえて別れ奉らんのみこそ、忍び がたかるべき」とて、目押し拭へば、我しも進み出づる涙は、ついで求めせられてこぼれ落つるも、はしたなくおぼえて、紛らはしくて、「故宮隠れ給ひて後、男君たちばかりおはする所へ、迎へられさせ給はん、むげにたつきなく、住みにくくこそ思されめ。
「宮の喪が明けたら、姫君を邸に迎えよう」とおっしゃっていました。姫君は長い間、埋もれ木のように過ごしていましたが、関白殿に知られて、その娘として認められることになったのは、私にとってもとても嬉しいことです。しかし、今まで片時も離れずに慣れ親しんできた姫君と別れるのは、耐えられないほど辛いことです」と言って、尼上は目を押さえて涙を拭いました。伊予守も涙が自然とこぼれ落ちるのを感じ、気恥ずかしく思いながらもごまかそうとしました。「故宮がお亡くなりになった後、男君たちだけがいる所に迎えられるとしたら、姫君は頼る人がいなくて住みにくいと感じるでしょう。」
設問3
「御忌み果てば、迎へ奉らん」とあるが、この「御忌み」とは何を指しているか、説明しなさい。
設問4
「目押し拭へば」とあるが、ここでの「目押し」とは何を意味しているか、説明しなさい。
答 え
設問3: 「御忌み」とは故人の忌日(命日)を指している。この場合、故宮の忌日を意味している。
設問4:涙を拭うこと。
さだかに知られ奉らせ給ひなば、何事にも定まらせ給はんほどは、ただ、なかなかかくてものせさせ給へかし」 と、なほ近くて、吹きかふ風もなつかしかりぬべきままに、大人しく言へば、尼上も、「げに、さること」と思ふ。「はらからなりとも、いはけなくより添ひ慣らはしたることなくて、今初めて見つけたらんが、なほよそ人と思ひて、染み返りなん心は、あるまじき仲と聞きなすとも、さりとてひたみちに心清くはなり変はらじを」と推し量らるるには、この御ありさまの、見る人ただなるまじきに、後ろめたきなるべし。
もし姫君の存在が関白殿に知られたならば、姫君の処遇が確定するまでの間は、姫君を関白殿の邸に移すよりも、このまま一緒にいる方が良いと考えました。姫君の部屋に近く、そちらから吹いてくる風も心地よく感じられるので、分別ある様子でそう言いました。尼上も「なるほど、それももっともなことだ」と思いました。中納言は姫君と兄妹であっても、幼い時から寄り添って慣れ親しんだことがなく、今初めて見つけたような人のことを他人だと思って、すっかり夢中になってしまうような心は、あってはならない仲だと聞いて理解しても、完全に恋心がない状態にはならないだろうと推測しました。この姫君の美しさを見た人は、普通ではいられないほどの美しさだと感じ、伊予守は不安に感じるのでしょう。
設問5
「尼上も、『げに、さること』と思ふ」とあるが、尼上がそう思った理由を説明しなさい。
設問6
「後ろめたきなるべし」とあるが、どういう意味か説明しなさい。
答 え
設問5: 近くで吹きかう風がなつかしいと感じたから。
設問6:心配や不安を感じるという意味。
「『うつほ』の絵を参らせ給へるも、ことしもこそあれ」と思ひ合はせられて、「仲澄の侍従に思ひよそへ給ふにや」と心の内に案ぜらるるも、「彼は、何さまにもあれ、け近く見奉り給はんにも、慰みて過ぐし給ふべし。
「『うつほ物語』の絵巻を姫君に差し上げたのも、他の物語ではなく、あの『うつほ物語』なのだと思わずにはいられませんでした。そして、『うつほ物語』の登場人物である仲澄の侍従に中納言ご自身をなぞらえているのだろうかと自然に思い巡らせました。あの方(中納言)は、どのような状況でも、姫君を近くで見ていることで、物思いを晴らして過ごすことができるだろうと思いました。」
我こそ、雲のよそにだに頼む方なき嘆きは添ひて、数ならぬ身ひとつを砕くとも、さりとて、つゆのあはれをかくるべきにもあらぬを、何につけてか、慰む方のあらん」など思ひつづくるに、人知れずもののみ悲しくてながめ伏したり。
私は、雲のかなたのような遠くにいる姫君を見られると期待することもできず、嘆きが加わって、何の価値もない自分の身を物思いで砕くとしても、姫君がほんの少しの情けもかけてくれるはずもないのに、どうやって心を晴らす方法があるだろうか。いや、私には心を晴らす方法もない。そう思い続けると、人知れず悲しみに沈んでぼんやりと物思いにふけっていた。
設問7
「仲澄の侍従に思ひよそへ給ふにや」の「にや」の後に省略されている語句を答えなさい。
設問8
「数ならぬ身ひとつを砕くとも」の「数ならぬ身」とは何を指しているか。
答 え
設問7:あらむ
設問6:価値のない自分自身を指している。
注 釈
- 「尼上の方へ参りて侍りつれど、見えさせ給はざりつる」
さきほど尼上の部屋を訪問したが、尼上が留守だったということ。伊予守は、最初に尼上を訪ねた時、姫君の部屋に行っていると聞いてそちらへ行き、そこで尼上といる姫君の姿を垣間見た。その後、あらためて尼上の部屋を訪ねている。 - 御兄人の中納言殿
姫君の異母兄。関白(本文では「殿」)と先帝の皇女(本文では「宮」「故宮」)の間の子。 - 『うつほ』の絵
「うつほ物語」を絵巻にしたもの。後出の言葉読むは、絵の場面に相当する物語の文章を読み上げることをいう。 - 間く人
伊予守。 - かくとは知られ奉り給へる
父の関白や兄の中納言に知られることなく育ち、最近になってようやくその存在が父や兄の知るところとなった。 - かの御身にもよろづ頼もしき蔭には、これをのみこそして過ぐい給へば
「かの御身」は姫君、「これ」は伊予守を指す。尼上は、姫君の生活を支えるために、これまで伊予守からの援助を頼りにしていた。 - おぼえなかりしほどに見奉り給ひて、言ひわたり給ひし春のこと
思いがけず中納言が姫君を見初め、恋文を送ってきたことをいう。(※伊予守と姫君は兄妹ではない) - 御忌み果てば、迎へ奉らん
宮の喪に服する期間が終わったら、姫君を邸に迎えよう、ということ。 - いつと なく埋もれ木にてのみ過ぐさせ給ひし
姫君が、ずっと関白に知られない状態であったことをいう。 - 紛らはしくて
伊予守が涙をごまかそうとする様子。 - たつきなく
頼る人がなくて。 - 何事にも定まらせ給はんほどは
どのようにも姫君の処遇が確かに決まるまでの間は。 - 心清くはなり変はらじを
姫君に対する中納言の恋心がなくなることはないだろう、と伊予守が考えている。
探究的な考察
石清水物語のように権力者が美しい女性を奪うという物語は中国の歴史や文学にもいくつか見られます。
例えば、唐代の楊貴妃(楊玉環)の物語が似ています。楊貴妃は、唐の玄宗皇帝の寵愛を受けた美しい女性でした。彼女はもともと玄宗の息子である寿王の妻でしたが、玄宗が彼女の美しさに魅了され、彼女を自分の妃にしました。このため、楊貴妃は皇帝の寵愛を受けることになり、寿王は彼女を失うことになりました。
漢王朝の美趙飛燕(中国ドラマ)※日本語字幕が使えます
唐の詩人李白が詠んだ『清平調』の中で、楊貴妃と趙飛燕を比較する詩があります。趙飛燕は元々、卑賤な出自であり、幼少時に長安にたどり着きました。彼女は「飛燕」と号し、歌舞の研鑽を積んでいました。その美貌が成帝の目にとまり、後宮に迎えられました。成帝は彼女を皇后とすることを計画し、反対を受けながらも、最終的に皇后として立てました。成帝の寵愛を受けた趙飛燕は、妹の趙合徳も後宮に迎え入れました。しかし、成帝が急死すると、趙合徳は自殺に追い込まれ、趙飛燕もその後、権力を失い、自殺に至りました。この物語は、彼女の美貌と成帝との関係、そしてその後の悲劇的な結末を描いています。