朗 読

本 文
二月つごもりごろに、風いたう吹きて、空いみじう黒きに、雪少しうち散りたるほど、黒戸に主殿寮来て、「かうて候ふ。」と言へば、寄りたるに、「これ、公任の宰相殿の。」とてあるを見れば、懐紙に、
少し春ある心地こそ すれ (南秦
の雪 白居易 を元に詠んだ下の句)
とあるは、げに今日のけしきにいとよう合ひたるを、これが本はいかでか付くべからむと、思ひわづらひぬ。「たれたれか。」と問へば、「それそれ。」と言ふ。みないとはづかしき中に、宰相の御いらへを、いかでか ことなしびに言ひ出でむと、心一つに苦しきを、御前に御覧ぜさせ むとすれど、上のおはしまして大殿籠りたり。主殿寮は、「とく、とく。」と言ふ。げに、おそうさへあらむは、いととりどころなければ、さはれとて、
空寒み 花にまがへて散る雪に (送られてきた下の句に付けた上の句)
と、わななくわななく書きて取らせて、いかに思ふらむと、わびし。
これがことを聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじとおぼゆるを、「俊賢の宰相など、『なほ内侍に奏してなさむ。』となむ、定め給ひし。」とばかりぞ、左兵衛督の中将におはせし、語り給ひし。
品詞分解
探究的な考察
みさえ:「『ものづくしの章段(類聚的章段)』って、清少納言の感性がよく表れているよね。さまざまなものを列挙しながら、それぞれの魅力を語るスタイルが面白い。」
はるか:「うん、単なる羅列ではなく、彼女の価値観が反映されているところが魅力的だよね。特に『うつくしきもの』(第151段)の部分では、小さな子どもや動物の愛らしさが描かれていて、繊細な観察眼を感じる。」
みさえ:「それに対して『日記的章段』は、より日常の出来事を生き生きと記録している感じがするね。宮中の様子や貴族社会の雰囲気がリアルに伝わってくる。」
はるか:「そうそう。清少納言は中宮定子に仕えていたから、特に定子との交流が見える部分が印象的だよね。定子は聡明で教養のある女性だったし、清少納言とのやり取りは知的で楽しそう。」
みさえ:「そうだよね。清少納言は定子のもとで過ごした宮廷生活を楽しんでいたみたい。定子が彼女に漢詩の一節を問いかけ、それに機知を利かせて答える『香炉峰の雪』の場面(第299段)なんかは、知的な遊び心が感じられるよね。」
はるか:「そして『随想的章段』には、そうした宮廷生活の中で育まれた美意識が凝縮されていると思う。『春はあけぼの』(第1段)のような季節の描写は、一条天皇の治世の平安な宮廷文化を象徴しているように感じる。」
みさえ:「確かに!清少納言は一条天皇の治世下の宮廷を直接経験していたし、その中で磨かれた美意識が文章にも反映されているよね。特に光や色彩の描写が巧みで、読むだけで情景が鮮やかに浮かんでくる。」
はるか:「そして、清少納言にとって中宮定子がいた宮廷は特別な場所だったんじゃないかな。定子の優雅さや知性が、清少納言の価値観をより洗練させたのかもしれない。」
みさえ:「だからこそ、『枕草子』は単なる随筆ではなく、清少納言の人生そのものが反映されている気がする。中宮定子との宮廷生活の記録であり、同時に彼女の美意識の結晶でもあるんだよね。」
はるか:「うん、だからこそ千年以上経った今でも読み継がれているんだと思う。読むたびに新たな発見があるし、清少納言の感性に改めて魅了されるよね。」

口語訳
陰暦二月下旬のころに、風がひどく吹いて、空は真っ黒なうえに、(その空から)雪がちらりちらりと舞い降りる天候の日に、清涼殿の北廊の黒戸のところへ主殿寮の役人が来て、「こうしてお伺いしております(ごめんください)。」と挨拶の言葉を述べるので、(御簾のところへ)寄ったところ、「これは、〔藤原〕公任の宰相様の(お手紙です)。」と言って差し出すのを見ると、懐紙に、
少し春ある……ほんの少し春がある心地がするよ。
と書いてあるのは、なるほど今日の天気の具合とぴったり合致しているが、この上の句はどうやってつけたらよかろうかと、考えあぐねてしまった。「誰々が(殿上にはいらっしゃるのか)。」と尋ねると、「あの殿様、この殿様。」と名前をあげる。どのお方もみなこちらが恥ずかしく思うほどたいそう立派な方々だが、中でも宰相様へのご返事を、どうしてなんでもないふうに言ってやれようかと、胸の内で思案に苦しむので、中宮様にお目にかけようとするけれども、(ちょうど)帝がおいでになって(お二人は)お休みになっている。主殿寮の役人は、「早く、早く。」とせき立てる。そうだわねえ、(上の句が下手なうえに返事が)遅いとなったら、全く取り柄がないから、ままよ、どうにでもなれと(覚悟を決めて)、
空寒み……空が寒いので、花に見まがうばかりに降る雪で、
と、ふるえふるえしながら返事を書いて(使いの者に)渡して、今ごろはどのように評価しているだろうかと思うと、つらい。
この反応を知りたいと思うが、もしけなされているなら(そんな評判は)聞きたくないと思っていると、「〔源〕俊賢の宰相様などが、『やはり(清少納言はたいしたやつだから、)帝に申し上げて掌侍に任官させよう。』とね、評定なさった。」と(結論)だけを、左兵衛督で当時近衛中将でいらした人〔藤原実成〕が、お話ししてくださった。