本 文
この場面までの流れ
- 光源氏は准太上天皇となり、六条院で栄華の絶頂にある。
- 朱雀院の強い願いにより、その皇女・女三の宮を正妻格として六条院に迎え入れる(女三の宮の降嫁)。
- 女三の宮はまだ幼く、光源氏の理想の女性(紫の上)とは対照的な人物として描かれる。
- 紫の上は表面上は平静を装うが、内心深く傷つき、心労を重ねていく。
- 六条院で若い貴公子たちによる蹴鞠の会が催される。
「垣間見」の場面
- 蹴鞠に興じる場に、飼い猫(唐猫)が飛び出し、御簾(みす)が引き上げられてしまう。
- その隙に、女三の宮の姿が柏木(頭中将の息子)の目に触れてしまう。
- 柏木はこの一瞬の姿に強く心を奪われ、以後、女三の宮への執着を募らせていく。
物語全体における位置づけ
- 光源氏の栄華に影が差し始める転換点
- 女三の宮降嫁によって紫の上との関係に亀裂が入り、六条院の調和が崩れ始める。
- 後の悲劇の伏線
- この垣間見が、のちの柏木と女三の宮の密通、そして、薫(不義の子)の出生という一大事件の起点となる。
- 主題の反復
- 光源氏自身がかつて藤壺への思いを募らせたように、柏木もまた「垣間見」から禁じられた恋に落ちる—世代を超えて同じ構造が繰り返される。
- 作品の転調
- 『源氏物語』は「若菜上」を境に、光源氏個人の栄華の物語から、次世代へと続く因果応報・宿世の物語へと重心を移していく。
六条院では若君たちが蹴鞠に興じていた。そんな中、女三の宮の飼い猫である唐猫を、もう一匹の大きな猫が追いかけ、御簾の端から飛び出してしまう。唐猫の綱が物に引っかかっており、逃げようとして綱を強く引いた拍子に御簾の端が大きくめくれ上がったが、女房たちは慌てて騒ぐばかりで、すぐに直す者もいなかった。
そのめくれた御簾の隙間から、几帳の陰に立っていた女三の宮の姿がはっきりと見えてしまう。紅梅襲と思われる色とりどりの衣を幾重にも重ね、桜の織物の細長を身にまとったその色彩の移り変わりは華やかで、背丈より長く豊かな髪、細く小柄な体つき、上品でかわいらしい横顔が印象的に描かれている。夕暮れ時で薄暗く、姿がはっきりとは見えなかったものの、その可憐な様子は十分に伝わるものであった。
猫が鳴いたことで女三の宮がふと振り返ると、そのおっとりとした若々しい表情を柏木が一瞬目にしてしまう。そばにいた夕霧はこの状況にはらはらしながらも、直接近づいて知らせては却って目立つと考え、咳払いだけでそれとなく知らせた。女三の宮はそっと奥へ戻ったが、御簾を上げたままにされてしまったことを不本意に思い、自然と嘆かずにはいられなかった。
もとより女三の宮に恋心を抱いていた柏木は、この一瞬の姿を見て胸がいっぱいになる。他の女房たちとは違い、はっきりとした袿姿であったことから、あの方が女三の宮に違いないと確信し、その面影が心から離れなくなってしまう。夕霧は柏木の様子を見て、気づかぬふりをしながらも内心では気の毒に思う。柏木は乱れる気持ちを紛らわせようと猫を抱き上げるが、その香りやかわいらしい鳴き声からもつい女三の宮を思い出してしまい、自分でも好色めいたふるまいだと感じるのであった。

1⃣御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人げ近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひつづきて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎてそよそよと身じろきさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしがましき心地す。2⃣猫は、まだよく人にもなつかぬ にや、綱いと長くつきたり けるを、物にひきかけまつはれ にけるを、逃げむとひこじろふほどに、御簾のそばいとあらはに引き上げられ たるをとみに引きなほす人もなし。3⃣この柱のもとにありつる人々も心あわたたしげにて、もの怖ぢしたるけはひどもなり。
1⃣いくつかの御几帳を乱雑に引き退けながら、(御簾越しに)人の気配も間近で世慣れて見えるところに、 唐猫でとても小さくかわいらしいのを、少し大きな猫が追いかけて、急に御簾 の端から走り出たので、女房たちが怖がって騒ぎざわざわと 身動きしてうろつく雰囲気や、衣の (擦れる)物音が、耳にうるさく感じ られる。2⃣(小さい)唐猫は、まだよく人に懐いていないのだろうか、綱が とても長くついていたのを、物にひっかけてまとわりついてしまっていたの で、(大きな猫から)逃げようと(綱を)無理に引っ張る時に、御簾の端がとても(中が)はっきり見えるように引き上げられたのを、すぐに引っぱって直す女房もいない。3⃣この柱の元に座っていた人々も心が落ち着かないような様子で、怖がっている雰囲気である。
4⃣几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ち給へ る人あり。5⃣階より西の二の間の東のそばなれば、紛れどころもなくあらはに見入れ らる。6⃣紅梅にやあらむ、濃き薄きすぎすぎにあまた重なりたるけぢめはなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物の細長なる べし。7⃣御髪の裾までけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七八寸ばかりぞあまり給へ る。8⃣御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかり給へ る そばめ、いひ知らずあてにらうたげなり。9⃣夕影なれば、さやかならず奥暗き心地するも、いと飽かず 口惜し。❿鞠に身をなぐる若君達の、花の散るを惜しみもあへ ぬけしきどもを見るとて、人々、あらはをふともえ見つけぬなるべし。⓫猫のいたくなけば、見返り給へ る面もちもてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人やとふと見えたり。
4⃣几帳のそばから少し奥に入ったあたりに、袿姿でお立ちになっている方 がいる。5⃣寝殿の南正面の階段から、 西側二つ目の間(に掛かっている御簾) の東端なので、他に隠れるようなとこ ろもなくはっきりと自然と目に入って しまう。 6⃣紅梅襲であろうか、色の濃い衣、薄 い衣が次々にたくさん重なっている色彩の移り変わりは華やかで、草子の (色々の紙が重なった)端のように見 えて、(そしてその上にお召しなのは) 桜の織物の細長に違いない。7⃣末端まではっきりと見える御髪は、糸を縒ってかけたように後ろに引かれ、末端がふさふさとたっぷりとした感じ で削がれているのは、とてもかわいら しい様子で、(身の丈より)七、八寸 ぐらい余りなさっている。8⃣お召し物の裾がたっぷり余っている 様子で、とても細く小柄で、体つきや、 髪がかかりなさっている横顔は、言い ようもなく気品があり何ともかわいら しい。9⃣夕方の光なので、(女君の姿が)は っきりとせず奥の方が暗い感じがする のも、とても満足できず残念だ。 ❿鞠に夢中になる若君達が、花が散る のを惜しむこともできない様子などを 見ようとして、女房たちは、(姫君の 姿が)露わになっているのを少しも目 にすることができないにちがいない。⓫猫がひどく鳴くので、見返りなさった表情やふるまいなどは、とてもおっとりしていて、若くかわいらしい人であるなあと、(柏木は)ぱっと見てとった。
⓬大将、いとかたはらいたけれど、這ひ寄らんもなかなかいと軽々しければ、ただ心を得させてうちしはぶき給へるにぞ、やをら引き入り給ふ⓭さるは、わが心地にも、いと飽かぬ心地し給へど、猫の綱ゆるしつれば心にもあらずうち嘆かる。⓮ましてさばかり心をしめ(占め)たる衛門督は、胸ふとふたがりて、誰ばかりにかはあらむ、ここらの中にしるき袿姿よりも人に紛るべくもあらざり つる御けはひなど、心にかかりておぼゆ⓯さらぬ顔にもてなしたれど、まさに目とどめじ やと大将はいとほしく思さる。⓰わりなき心地の慰めに、猫を招き寄せてかき抱きたれば、いとかうばしくてらうたげにうちなくもなつかしく思ひよそへ らるるぞ、すきずきしきや。
⓬大将(夕霧)は、(端から見て) とてもはらはらするけれども、這い寄る(ことで丸見えなことを知らせる) のもかえってたいそう軽々しいことな ので、ただ気づかせるために咳払いを しなさったことで、(姫君は)そっと 奥の方へお入りになった。⓭そうはい っても、ご自身のお気持ちでも、たい そう満足しない気持ちがしなさるが、(誰かが)猫の綱を放したので、不本 意に思い、自然と嘆かれるのである。 ⓮ましてや、あれほど恋心でいっぱい になっている衛門督(柏木)は、胸が さっと塞がって、(他の)誰であろうか、 いや他の誰でもなくあの方(女三の宮) であるに違いなく、たくさんの女房た ちの中で(他と違い)はっきりとした 袿姿であるために(他の女房と)間違 えるはずもなかった雰囲気などが、心 から離れないように思われる。 ⓯そ知らぬ顔でふるまっているけれど も、(柏木が)どうして目をとどめな いことがあろうか、いやあるまい、と 大将は気の毒にお思いになる。 ⓰分別のつかない気持ちを慰めるため にと、(あの唐)猫を招き寄せて抱きとったところ、とてもよい香りがして かわいらしく鳴くのも、慕わしいもの と(宮を)自然と重ね合わせしてしま う思いになるのは、好色めいたことで あるよ。
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