2026年8月7日、福島大学ラウンドテーブルに、今年もオンライン形式にて参加させていただきました。参加者は総勢九名。全員が画面の向こうから顔を合わせるという、今や見慣れた光景ではありますが、決して大きくはない規模の集いであったからこそ、一人ひとりの発言に重みが宿り、密度の濃い議論の場となりました。
今回、とりわけ印象に残ったのは、参加者の中に高校の教頭先生が参加していたことです。無論、その先生もまた画面越し、オンラインでの参加でした。ICTという道具立てを介して、まさにこの瞬間もその恩恵に浴しながら議論の席に着いていたわけですが――皮肉なことに、議論が進むにつれ、その当のご本人の口から発せられたのは、ICT推進に対して逆行するとも受け取れる意見でした。オンライン参加という、ICT化がもたらした利便性を当然のごとく享受しつつ、その一方でICT推進そのものには慎重、あるいは懐疑的な姿勢を示すという、なんとも噛み合わぬ構図に、私は正直なところ苦笑を禁じ得ませんでした。恩恵は受け取りながら、変革そのものは否定する――これもまた、教育現場の管理職に根強く残る一つの縮図なのかもしれません。こうした場面に幾度となく立ち会ってきた身としては、いったいあと何度、この種の光景を見なければならないのかという思いを強く持ちました。
校務多忙の中、遠隔からとはいえ画面を開いたその姿勢自体は、一応の敬意を表しておくべきなのでしょう。しかし、その発表や発言の端々からは、自分で汗を流して切り拓かれた実践の報告というよりも、これまで他の先生方が五年間にわたって、積み重ねてこられた取り組みや実績を、さも我が事のように語っているように見受けられました。他人が丹精込めて育てた田畑の実りを、涼しい顔で味わっているような――そんな図々しさすら感じさせる様子でした。土俵に上がる装備は他人から借りながら、堂々と四股を踏んでみせる、その胆力だけは、たしかに見上げたものです。

私がICT推進の必要性を話すと、その教頭先生は「自分は教頭だから、数学以外の授業もやらなければならず、週三時間、国語の授業もやっている。ほかの先生たちに逆行して、あえてタブレットを使わない授業を行い、哲学的な思考をさせた、評判は悪かったが。」と誇らしげに語りました。彼は数学科の教員であり、国語は教頭という立場上、やむなく週三時間受け持っているに過ぎません。国語教育を専門として三十年以上教壇に立ってきた者からすれば、数ヶ月の付け焼き刃の実践を「哲学的思考を促す指導」と呼ぶことに、専門性の裏付けがあるとは到底思えません。評判が悪かったという結果は、むしろその読みの浅さを裏付けているとも言えます。ICT推進を掲げる立場でありながら、その実践を自ら拒んでみせる――この一言に、旧来の枠組みから一歩も踏み出せずにいる姿が凝縮されていました。そのとき私は、この教頭が今の生徒たちと本気で向き合ってはいないのではないかと感じ取りました。
雪深い山奥の小さな学校に初めて赴任し、「(転勤まで)あと二年の辛抱だ」とでも言いたげな表情がその顔には浮かんでいました。そして彼のプライドは、私の発表に難癖を付けることで満たされていくのでした。ICT推進を語りながらそれを拒む言葉、任地に対するどこか他人事めいた態度、そしてICT活用の実践に難癖をつけることでしか保てない愚かなプライド――このちぐはぐさこそが、福島におけるDX化の道のりの険しさを、何よりも雄弁に物語っていたように思います。今回、参加していた先生たちもおそらく、敏感にそんな雰囲気を感じ取っていたことでしょう。

最後に、私からファシリテーターの先生に一言申し添えました。「以前、福島大学の地元は山形、宮城、福島だと入試説明会の際に伺いました。ぜひその認識を改めていただきたいのです」と。人口減少に歯止めのかからない福島を、これから支えていくのは若い世代の優秀な人材にほかなりません――そうした思いを込めての発言でした。ファシリテーターの先生は「今回の一番の収穫でした」と受け止めてくださいましたが、それを揶揄するかのように、例の教頭先生から「よくそんなことが言えるもんだなあ」という言葉が発せられました。さすがの私も、この一言にはいささか気分を害さずにはいられませんでした。私はその場の雰囲気を損なわぬ程度に、静かに、しかし、はっきりと抗議の意を伝えておきました。
今振り返ってみると、この瞬間にこそ、あの教頭先生の心理が最も如実に表れていたように思います。ファシリテーター役の福島大の先生が私の提言を「今回の一番の収穫でした」と評価する一方で、彼の発言や発表には、誰からもそうした賛辞は向けられませんでした。その落差を埋める言葉を持たぬまま、彼は正面から反論する論理も勇気もなく、ただ揶揄によって他者への評価そのものを貶めようとした――それは、賞賛される側への苛立ちが抑えきれずに漏れ出た瞬間だったのではないでしょうか。彼の一連の言動は、「本物の実践者に対する劣等感」を、①借り物の手柄で覆い隠し、②あえての拒絶という論理で正当化し、③他者への評価をおとしめる皮肉で発散する、という三段構えの防衛として機能していたと思います。妬みとは、多くの場合、自分より優れた相手を正面から認めることができないがゆえに、婉曲な攻撃や揶揄というかたちで漏れ出るものです。
一方で、この日のラウンドテーブルを振り返れば、決して悲観すべきものではなかったことも、あわせて記しておきたいと思います。小学校・中学校で教鞭を執る若い先生方からは、実に好意的な反応が数多く寄せられました。中には、現場の実践を踏まえた、かなり踏み込んだ質問も飛び出し、議論に厚みを与えてくれました。印象に残ったのは、ある若手の先生からの質問で「イラストを描く際、AIに口頭で指示を出すだけでは狙った絵にはならないはずですが、実際にはどのような手順で作成しているのですか」というもので——操作の表面ではなく、AI活用の裏側にある試行錯誤にまで踏み込んだこの問いに、私は素直にうれしくなりました。さらに、このような学習を行うことによってテストの点数が良くなるという発表したら、「なぜ良くなるんですか」という質問もありました。「生徒たちが主体的に学習し自分たちで議論を交わして理解しているから良くなるのは当然です」と私は答えました。

普通の読解では、生徒は文章を読んで『分かったつもり』で終わることが多いです。ところがAIイラストを見せると、生徒は自分の頭の中にあった場面のイメージと、AIが実際に描いた絵とのズレに気づきます。『あれ、この場面、こんな格好じゃないはずだ』『この位置関係、本文と違う』——このズレを本文に戻って確認する作業自体が、読み直し・根拠探しを強制的に発生させます。つまり、AIイラストは正解を見せるための道具ではなく、生徒自身の誤読や曖昧な理解を可視化して突きつけるための仕掛けです。だからテストで問われる『本文のどこにそう書いてあるか』という根拠の把握力が、結果として鍛えられているんです。
今回、私はAIを活用したAI(Assist Inteligence)読解法の有効性を説くべく、この場で発表いたしました。しかし、思いがけぬ横槍が入り、私の伝えたかったことが、聞いてくださった方々全員に届いたとは、必ずしも言い切れません。その点は、正直なところ、いささか残念でなりません。ですが、私が本当に伝えたかったことは、ひとえに、この若い先生方とのやりとりの中にこそ凝縮されていたように思います。

同じオンラインという場に居ながら、その活用の仕方、そして議論への向き合い方において、これほどまでに世代間の差が浮き彫りになるとは、私自身、予想しておりませんでした。旧来の枠組みにとらわれず、教育の未来を柔軟に捉えようとするその姿勢には、これからの福島の教育を託すに足る、確かな希望を見出すことができました。
管理職世代の名ばかりの適応と、若手世代の実質を伴った積極性――この対照的な二つの姿勢が、同じ画面越しの場に同居していたこと自体が、今の教育現場が置かれている煮え切らなさを象徴していたように思います。異なる立場の声が交錯する中で、互いの考えに耳を傾け、率直に意見を交わすことができたという点において、今回のラウンドテーブルは、私にとって極めて有意義な時間となりました。私は福島だろうが、神奈川だろうが、名古屋だろうが、目の前にいる生徒たちと誠実に向き合いながら、今後も効果的な授業――すなわち、教えない授業を体現するDX化――を、時間の許す限り進めていくつもりです。最後に私の故郷、福島にたくさんの優秀な若者たちが根を下ろし、福島の復興のために活躍してくれることを心から願います。以下、当日発表した「AI読解法」の内容を、資料に沿って記しておきます。
2026福島大学ラウンドテーブル 発表資料
「高校国語におけるAI(Assist Intelligence=『智を助ける』)読解法」
- 共通テスト(2026年1月17日実施)をAI読解法で解いた例
評論・小説・実用文・古文・漢文の各分野で、筆者のSNSや動画、AI生成イラストなどを使い、まず「イメージを持たせて興味を引く」という工夫を紹介。難解な分析よりも入り口のハードルを下げることが目的。 - 実際の授業での活用例(言語文化・古典探究)
「徒然草」「朝三暮四」「枕草子」「織女」の4作品を例に、[音]AIによる音読、[絵]AI生成イラストでの場面把握、[記]語感や構造の理解、[!]内容の深化、という共通パターンで実践内容を紹介。特に「イラストの間違いに気づかせる」ことで印象づける工夫が特徴的。 - かつてのスタイル(マンガ作成・図書館調べ学習)
2021年郡山市内の高校での「こころ」マンガ作成実践を紹介。AIを使わない従来型の手法でも「場面を具体的にイメージし、作者の実像に近づく」という本質は今のAI活用と同じであると位置づけ、「過去」と「現在」の連続性を整理。 - まとめ/ICTと主体的学びの関係
- 論点は「ICTを使うか否か」ではなく、使い方(名古屋の私学は積極活用、福島は二極化傾向)
- 教師主導の講義形式からの脱却とアクティブラーニングとのミックスが重要
- 生徒自身が「自分で見つけた・分かった」と感じる体験こそが本質
- タブレット操作やLMS習熟はむしろ教員側の課題(生徒の順応性は高い)
- デジタル難民対策にはグループ・ペア学習が有効
私の主張
手段(マンガ・映画・図書館調べ→AI・ICT)は時代とともに変わっても、「内容を具体的にイメージし、作者・筆者の実像に近づく」という国語学習の本質は変わらない、という一貫したメッセージです。
2025福島大学ラウンドテーブル 発表資料




