その日の午後は、妙に空気が湿っていた。まだ梅雨には遠いはずなのに、低く垂れた雲が街全体に蓋をしているようで、遠くの電線がやけに黒々と目に映った。
外出先からの帰り道、携帯が振動した。画面に浮かんだ番号を見て、彼は一瞬、記憶をたどった。ウォーターサーバーの配送業者――そう思い出すのに、二秒ほどかかった。
「あと一分で到着いたします」
若い男の声だった。事務的でありながら、どこか苛立ちの尾を引いていた。まるで、こちらが約束を破ったかのような響きだ。彼は反射的に足を速めた。予定を切り上げ、人波を避けながら小走りになる。信号が赤に変わりかけたところを、無理に渡った。かかった時間は、せいぜい二分か三分だったはずだ。それでも息は上がっていた。
角を折れて自宅の前に出たとき、彼はまず車を見た。
見慣れない、遠方の地名を示すナンバープレート。車体は白く、側面に会社名のロゴが貼られているが、その貼り方がどこか歪んでいて、剥がしたあとがうっすらと残っている。まるで何度も業者を替えてきた車のようだった。

その脇に、配達員が立っていた。
金髪を短く刈り上げ、うなじのあたりだけをわずかに伸ばしている。左耳には小さな金属の輪がいくつも並び、日の陰った空の下でも、それだけが妙に光っていた。腕を組み、片足に重心をかけて立つその姿勢は、荷物を届けに来た人間というより、むしろ取り立てにでも来たかのような剣呑さを漂わせていた。視線はまっすぐこちらに向けられている。値踏みするような、値段をつけるような目だった。
「遅いっすね」
低く、短く、吐き捨てるように言った。舌打ちが、その後ろについてきた。
彼は喉の奥が強張るのを感じた。この手の人間に、うかつに歯向かってはいけない――そんな思考が、警報のように頭のなかで点滅した。相手はすでに、こちらの住所を知っている。表札の名前も見ただろう。家の外観も、庭の様子も、すべて目に入れたはずだ。夜半、誰にも見られずに何かをされたとして、それを証明する手立てが自分にあるだろうか。そう考えると、抗議の言葉は喉の手前で、いったん押しとどめられた。
だが、黙って引き下がることもできなかった。
「そんなに待たせてはいないはずですが」
声を絞り出すようにして、彼は言った。怒りを表に出さないよう、あえて低く、平坦な調子を選んだ。急かしたのは向こうであり、それに応じて駆けてきたのはこちらだ。詰められる道理はどこにもない。
配達員は、片方の眉だけをわずかに上げた。それから、ふん、と鼻先で笑い、聞き取れないほどの小声で二言三言、悪態らしきものを吐くと、荷物を玄関先に置いて車に戻った。ドアを閉める音が、思いのほか大きく、静かな住宅街に響いた。金属と金属がぶつかるような、乾いた、余韻の長い音だった。

エンジン音が遠ざかっていく。彼はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。安堵と、消化されない苛立ちとが、胸のなかで妙な具合に混ざり合っていた。
その夜、彼は契約書を引き出しの底から取り出した。ウォーターサーバーの会社――ここでは「アクアリラ」としておく――との契約は、もう三年近く続いている。だが、今日の一件で、何かが決定的に変わってしまったという感覚があった。
配達員が、自分の家の場所も、生活の様子も、すべて知っている。契約を続けるということは、その状態を維持するということだ。そう考え始めると、夜中に物音がするたびに、玄関先の金属音がよみがえるようになった。
翌週、彼はアクアリラのカスタマーセンターに電話をかけた。
一度目の電話に出たのは、抑揚のない男性の声だった。背後で、キーボードを叩く音が絶えず聞こえていた。彼が事情を説明すると、男は「大変申し訳ございませんでした」と、あらかじめ用意されたような台詞を一つ挟み、そのあとすぐに「解約金につきましては、規定により発生いたします」と続けた。判で押したような対応だった。
二度目の電話も、大差はなかった。担当者は女性に変わっていたが、語尾の上げ方まで似ているような気がした。彼が転居の予定や、配達員の態度について繰り返し説明しても、返ってくるのは「規定でございますので」という、同じ一文だけだった。何を投げても、暖簾に腕を押しているような感触しかなかった。
電話を切ったあと、彼は自分の手が、いつのまにか固く握られていることに気づいた。
三度目の電話をかけたのは、二度目からちょうど一週間後の、よく晴れた午前中だった。窓から差し込む光が、机の上の契約書を白く照らしていた。
担当したのは、また別の女性だった。落ち着いた、聞き取りやすい声だったが、彼の中では、もう誰の声も同じに聞こえていた。
そのとき、彼は自分でも思いがけないほど、声を張った。
「配送業者の若者が、私に無礼を働いたんです。だったら、人として当然のことをしてもらいたい。それくらいは、最低限の道理じゃないですか」

言い終えたあと、自分の声の大きさに、彼自身が驚いた。抑え続けてきた分だけ、その一言には、これまでのすべてが滲んでいたのかもしれない。
電話の向こうで、束の間、沈黙があった。
これまでの沈黙とは、質が違っていた。相槌を探している沈黙ではなく、何かを受け止めている沈黙だった。彼にはそう感じられた。
「……お客様のお気持ちは、よく分かりました」
担当者はそう言った。声のわずかな震えを、彼は聞き取った気がした。
それでも、その日の結論は変わらなかった。「上の者と相談し、改めてご連絡いたします」――そう言われて、電話は切られた。
四度目の電話がかかってきたのは、三度目からさらに十日ほど過ぎた、夕暮れのことだった。窓の外では、隣の家の庭木が、風に揺れて壁に影を落としていた。
彼はもう、何も期待していなかった。どうせまた同じ結論だろう、と半ば諦めていた。
「大変、ご迷惑をおかけいたしました」
担当者は、そう切り出した。以前とは違う、少し低い、年配らしい男性の声だった。
「解約金につきましては、いただかないことにいたしました」
彼は、一瞬、言葉の意味がうまく飲み込めなかった。あれほど頑なだった壁が、四度目にしてあっさりと崩れたことに、拍子抜けするほどの空白を感じた。怒りをぶつける先を、彼はしばらく見失っていた。

「配送業者の責任者から、改めてお詫びの連絡を入れさせます」
その一言は、当初、彼が最も求めていたものだったはずだ。
しかし、彼は、しばらく黙り込んだあとで、静かに答えた。
「いえ、それは結構です。逆恨みされても困りますから」
理屈としては、間違っていない。あの金髪の配達員の、値踏みするような目を思い出せば、責任者から叱責を受けたと知った相手が、どんな意趣返しに出るかは分からない。そう考えれば、辞退するのは筋の通った判断のはずだった。
けれど、彼自身、内心では少し違うことも分かっていた。解約金が消えた時点で、彼の目的はすでに達成されていた。謝罪の電話などという儀礼に、これ以上つき合う気力は、もう残っていなかった。逆恨みへの警戒はうそではない。だが、それ以上に大きかったのは、単純な、ただの疲労だったのかもしれない。
電話を切ったあと、彼は玄関先に立ってみた。
夕闇のなかで、あの日、配達員がドアを閉めたときの金属音が、耳の奥でかすかに再生された。あの音と、逆恨みを恐れて言葉を選んだ自分自身の姿だけが、いまもそこに残っているような気がした。
水は、もう届かない。

それでいい、と彼は思った。ただ、その静かな結論の裏側に、まだ何か言い残したことがあるような感覚だけが、しばらく消えなかった。
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