※この記事は「こころ Kはなぜ死んだのか?」を補足する記事です
『こころ』が描いた「エゴイズムの行き着く先」
『こころ』において、「私(先生)」は親友Kの恋の告白に動揺し、焦りと恐怖から、Kに黙ってお嬢さんへの結婚を申し込みました。結果的に結婚は成就しましたが、その数日後にKは自殺し、「私」は生涯消えない罪悪感を背負うことになります。1912年(明治45年)7月30日の明治天皇崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)と、その大喪の礼(葬儀)の日(9月13日)に行われた乃木希典(のぎまれすけ)大将の殉死(じゅんし:主君の死を追って自ら命を絶つこと)をきっかけに、「私」もまた自死を選びます。
この作品が問いかけるのは、「人間の利己心や弱さは、どこまで他者を傷つけ、自分自身をも破壊するのか」という苦い真実です。Kは理想と恋心の板挟みで苦しみ、「私」は友情よりも恋を優先した自らの弱さに苦しみました。二人とも、自分の内面にある「私(エゴ)」に囚われた結果、破滅したのです。
※エゴ(ego):ここでは「自我」「自己中心的な考え方」を意味します。自分の利益、欲望、プライド、思い込みなど、「自分、自分」という執着のことです。エゴイズムとは、そうした自己中心性が他者を顧みずに行動する態度を指します。
漱石自身もまた、「私」に苦しんでいた
実は、漱石自身も生涯を通じて「自我(エゴ)」との闘いを続けた人物でした。漱石の作品は、時期によってこの「エゴ」の問題への向き合い方が変化していきます。
初期〜中期 「自己本位」の確立
イギリス留学中、漱石は西洋の学問の広さと深さに圧倒され、「自分は何も分かっていない」という劣等感と孤独に苦しみました(神経衰弱)。その苦しみの中で漱石が見出したのが「自己本位」という考え方です。「自己本位」とは、他人の評価や権威ある人の意見に振り回されるのではなく、自分自身の頭で考え、自分の内側から湧き出る価値観に従って生きる、という姿勢です。漱石はこの自分の立ち位置を見出すことで、精神的な安定を取り戻しました。この時期の作品は、個人の生命力や社会への違和感を瑞々しく描きました。
『吾輩は猫である』(1905-1906年) 中学教師・苦沙弥先生の家に住む猫の視点から、明治知識人たちの滑稽な日常を風刺的に描いた作品。猫は人間社会を冷静に観察し、批評します。
『坊っちゃん』(1906年) 東京育ちの正直で短気な青年教師が、四国の中学校に赴任し、教師仲間の陰険な策略に怒りながらも自分の信念を貫く物語。
『三四郎』(1908年) 熊本から上京した純朴な青年・三四郎が、都会の文化や新しい女性像に触れ、恋と学問の間で揺れ動きながら成長していく青春小説。
中期〜後期 個人主義の限界と苦悶
しかし、『それから』『門』『行人』、そして『こころ』へと進むにつれ、個人の自由やエゴが他者との衝突、孤独、そして拭い去れない罪悪感を生むという「個人主義の影」を徹底的に掘り下げていきました。
『それから』(1909年) 高等遊民(働かずに生活する知識人)の代助が、友人の妻・三千代への愛を自覚し、社会的地位を捨ててでも愛を貫こうとする決意を描いた作品。個人の自由と社会規範の衝突が主題。
『門』(1910年) 過去に友人の妻を奪った罪悪感を抱えて生きる宗助夫婦の、閉ざされた暗い日常を描いた作品。罪の意識から逃れられない苦悩が中心。
『行人』(1912-1913年) 哲学的思索に耽る兄・一郎が、妻への疑念と嫉妬から弟に妻の貞操を試すよう頼むという異常な行動に出る物語。知的探究と人間関係の破綻を描く。
『こころ』(1914年) 「私」が出会った「先生」が、学生時代に親友Kを出し抜いてお嬢さんと結婚し、その後Kが自殺したという過去の罪悪感に苦しみ、明治天皇崩御と乃木殉死を機に自死を選ぶ物語。
「私の個人主義」(1914年11月、学習院での講演)
『こころ』発表直後に行われたこの講演で、漱石は自身の思想を整理して語りました。「私の個人主義」
- 自己本位:自分の個性を発展させるためには、自分自身の判断で物事を考えること。
- 義務と責任:自分の自由を主張する以上、他人の自由(個性)も尊重しなければならない。
- 道徳的覚悟:権力や金力を持つ者は、それを私的な欲望のために乱用してはならない。
この講演は「エゴを肯定する」のではなく、「独立した個人としていかに誠実(道徳的)に生きるか」を説いたものでした。
晩年「則天去私」へ向かう道
1910年の修善寺の大患(胃潰瘍による大吐血で死に直面した出来事)を経て、最晩年の漱石が口にするようになったのが「則天去私(そくてんきょし)」です。
- 去私(きょし):執着や自尊心といった「小さな私(エゴ)」を捨て去ること。
- 則天(そくてん):自然の摂理や、より大きな運命の流れに従うこと。
これは無気力になることではなく、エゴによる苦執(自分自身へのこだわりや、間違った執着によって生じる苦しみ)を離れ、透明な心で世界を受け入れる境地を指します。たとえば、誰かに傷つけられたとき、「あいつが悪い」と怒ったり「自分がダメだ」と落ち込んだりするのは「私(エゴ)」に執着している状態です。対して則天去私とは、「人間だからそういうこともある」「それも自然な流れの一部だ」と、一段高い視点から自分を眺め、波風を立てずに受け流すような、穏やかで透明な精神状態を指します。
『明暗』(1916年、未完) 夫婦の心理的な駆け引きと、過去の恋愛関係が絡み合う複雑な人間模様を描いた作品。主人公・津田は利己的で打算的な人物として描かれ、この利己主義の極致にある人間模様が描かれましたが、漱石は結末を前に1916年12月9日、49歳で死去しました。
学習のポイント
- 『こころ』は、人間の利己心や弱さが引き起こす悲劇を描いた作品である。
- 漱石は彼の全作品を通じて「私(エゴ)」の問題を追求し続けた。
- 「私の個人主義」は、自由に伴う「責任と他者への尊重」を説いた思想的到達点である。
- 「則天去私」は、エゴの葛藤を突き抜けた先に漱石が求めた理想の境地である。
- 『こころ』を読む際、この「則天去私」という視点を持つことで、作品と作家の人生がより深く理解できる。
- Kや「私(先生)」は、自分のエゴ(理想や恋心、プライド)に囚われて苦しみ、最終的に死を選んだ。漱石はこの作品で、人間の利己心や弱さがもたらす悲劇を描いた。
- そして漱石自身は、この作品を書いた後、「則天去私」という「エゴを捨てる」境地を目指すようになった。つまり、『こころ』は漱石が人間のエゴの問題を突き詰めた作品であり、「則天去私」はその先に漱石が求めた答えだったのである。
- このつながりを知ることで、『こころ』は単なる悲劇の物語ではなく、漱石の人生をかけた問いかけの一部として読むことができる。
探究的な考察
1 漱石は「宗教」をどう考えていたのか?
漱石は、どこかの神様を熱心に信じるような、特定の「信仰」は持っていませんでした。しかし、彼は人生の苦しみから逃れるために、二つの「宗教的な境地」に近づこうとしました。
座禅での挫折
20代の頃、親友の死や自分自身の神経衰弱に悩み、鎌倉の円覚寺で座禅の修行(参禅)をしました。しかし、結局「悟り」を開くことはできず、自分の凡人さを痛感します。この「救われたいのに救われない」という感覚が、後の作品に深く関わってきます。
則天去私(そくてんきょし)という理想
上でも書いたように晩年の漱石がたどり着いた言葉です。「小さな自分のエゴ(私)を捨て、大きな天の理(天)に従って生きる」という意味です。特定の宗教団体に入るのではなく、自分自身の心の中で「エゴを捨てて楽になりたい」と願う、独自の哲学を持っていました。
2 「こころ」執筆時に考えていたこと
「こころ」を書いた大正3年(1914年)、漱石は「人間のエゴイズムは、死ぬまで消えない呪いのようなものだ」という非常に厳しい現実を見つめていました。
明治の終わりと孤独
明治天皇(「新しい国の父」、慈愛に満ちた絶対的守護者)が亡くなり、乃木希典将軍(日露戦争の英雄)が後を追って自決したことで、漱石は「明治という時代が終わった」という強い喪失感を感じていました。古い道徳が消え、人々が「自分さえ良ければいい(自由・独立・自己)」と考えるようになった結果、逆にみんなが深い孤独に陥っていると考えたのです。
先生に込めた問い
主人公の「先生」は、卑怯な手を使ってでも幸せを掴もうとしましたが、その罪悪感に一生苦しめられます。漱石はここで、「他人の犠牲の上に自分の幸せを築く人間は、たとえ成功しても自分を許せず、死ぬまで孤独からは逃げられない」という、人間のエゴの恐ろしさを読者に突きつけようとしました。
3 高校生の皆さんへ 「こころ」を読むヒント
漱石にとっての宗教とは、「神に祈って救われること」ではなく、「どうしようもない自分のエゴとどう向き合うか」という戦いでした。「こころ」を読む時は、「先生はなぜあんなに苦しんでいるのか?」「自分だったら親友を裏切らずにいられるか?」と考えてみてください。それが、漱石がこの物語を通じて私たちに問いかけたかった「宗教以上に切実な人間の真実」なのです。




コメント