「C.Wニコル アファンの森財団」の理念とは?
「日本を愛し、自然を愛し、森の再生に人生をかけたC.W.ニコルが2020年4月3日に永眠しました。」
50年以上も前、C.W.ニコルが初めて来日したころの日本には美しい自然と、自然と共に生きる人々の暮らしがありました。里地里山の自然の恵みを慈しみ、燃料や食料は賢く利用する―― その暮らしぶりは、里山の生物多様性をも高めていました。
このような日本の伝統的な循環型社会文化はいま、“SATOYAMA”として世界共通語になっているほどです。
そんな日本の自然と日本人に憧れて移り住んだにもかかわらず、日本は高度経済成長と共に、自然よりも経済を中心とした価値観に変わっていきました。日本の素晴らしい自然が失われていったのです。
そのような状況を目の当たりにしたC.W.ニコルは「日本本来の美しい自然環境を取り戻したい」という思いで、1986年から長野県黒姫に荒れ果てた森を自ら買取り森づくりをはじめました。
現在アファンの森は、多くの方々のあたたかいご支援により生態系が甦りつつあり、様々な動植物が森に還りました。そして「豊かな森は人の心も豊かに育む」ことが活動を通して見えてきました。
私たちは、この多様性あふれる日本本来の自然環境の中で、人々が豊かに暮らせるような社会を築いていきたいと考えています。
「C.Wニコル アファンの森財団」HPより
2020年4月に亡くなったC.W.ニコルさんって知ってますか?
知らな~い!にこるんなら知ってるぅ笑
このおじいちゃん?!知ってるわけねーべした!
私はみんなぐらいのころにテレビでよく見ていたんですよ!
イギリスのウェールズの出身で日本に移住して、長野県黒姫にある森に住んで自然を再生しようとされていたんです!
とってもステキなおじいちゃん!最高じゃん!
「アファンの森以外にも、2011年の東日本大震災以降、宮城県東松島市では復興の森の整備、公立では全国初の『森の学校』となる「宮野森小学校」の開設支援など継続的に活動をおこなってきました。また、津波の被害を受けた沿岸部の湿地を再生させ、東北の環境教育のフィールドにすることを目指していました」
東松島の学校を作ることで我々の方が救われたんです
愛情と力を感じました
東松島に戻ると家族が増えたような感じがします
なんだろう…涙出る笑
このおじいちゃん、めっちゃ好き!!!
なに勝手に泣いてんだって!なんか私まで涙出る!笑
日本人じゃないのにこんなに日本を愛してくれてたんだ!
私もYouTube見ていて胸が熱くなりました
敬愛するC.Wニコルさんに心より哀悼の意を捧げます
なお、このブログの中で、私も田舎の再生について書いています
どうぞご覧ください
内山節 上野村との関わりについて
次に内山先生をご紹介しますね
内山節先生は入試の現代文でも頻出の方ですが初めてお顔を見た人も多いでしょうね?
え~めっちゃ普通のおじいちゃんじゃん!
なんかうちの親戚のおじいちゃんに似てる!
優しそう!www
私がはじめて群馬県の上野村に滞在したのは、一九七〇年代に入ってまだ間がない頃だった。投宿した鉱泉宿の前には神流(かんな)川が流れていて、一日中水音が響いていた。宿の前でヤマメやイワナを釣ることができた。大神楽沢と湯の沢という二本の沢が、宿を挟むように山から流れ落ちてきていて、その大神楽沢の出口付近には、一本の丸太橋がかかっていた。橋を渡ると山道がつづく。道の周囲の森は神社林ともいえるし、集落の人たちの共有林ともいえる。当時は植えたばかりのヒノキが両側にみえていた。十分ほど歩くとちょっとした山頂に出る。そこにこの集落の神様である虎(とら)王(おお)様が祀られていて、ほこらの両脇に大きなヒノキが三本あった。樹齢二○○年を超えた天然ヒノキだと いう。上野村は多少の天然ヒノキのある村だから、それらが天然のものだとしても不思議ではない。以前はもう五、六本あったのだと村人に教えてもらった。昭和三十年代の前半に集落に電灯線を引くとき、村人の負担を軽くするために何本が伐った。集落水道を敷設するときにも伐った。集落の大きな収入になった。「あの神社の木は、みんなのために必要になったとき伐る木だ」というような話を、私は村人から何度か聞いた。総有林的性格をもっていたのだろう。そのヒノキもあと三本になっていたから、村人は山の麓に新しいヒノキを植えたのである。二百年後の集落を支える木として。実際村人たちは、そのヒノキの植林地をみながら誇らしげにしていた。子孫のために総有の森を残したのである。いつか子孫たちが役立てるときがくるだろう。そんな話を聞きながら、私は山村の暮らしとは何かを、少しずつ理解していったように思う。 いまでも虎王神社の社の横には、三本の天然ヒノキが立っている。といってもこのヒノキが集落のために利用されることは、もうないかもしれない。かつて集落の人たちが自力で おこなってきた「社会資本」整備は、いまでは役場の仕事になった。集落の人々も減ってきている。
このような変遷をとおして、上野村の伝統的な森林利用は 推移してきたのである。すなわち、歴史をみるかぎり、伝統的な森林利用とは、固定化された利用形態があったかのようにとらえるものではなく、時代に対応しながら森を利用する生活をしてきたことのなかに求められるものではないか、という気がしてくる。変わらないのは森を利用した生活や労働の方にあるのであって、その形態ではない。もうひとつ変わらなかったのは、自然に対する畏敬の念であり、信仰であろう。だがそれは、いまでも残っているとはいえ、明治以降崩されつづけた。そして今日では、村人はあまり森を利用しなくなった。その意味で伝統的な森と人との関係が崩れ、その森と人との関係を仲介する役割を果たしてきた「集落」も、維持が大変な時代を迎えている。今日の問題は、このような視点に立つなら、林業の危機ではなく、伝統的な森林利用の危機なのである。なぜなら、林業もまた、ひとつの時代のなかでの伝統的な森林利用のかたちだからである。林業が衰退しても、それに代わる新しい人と森の関係が生まれてくるのならそれでもよい。歴史をみてみれば、そういうことはしばしば起こっていた。形態は変わっても、人が森を利用するかたちが維持されていればそれでよい。ところが今日の現実は、林業の衰退とともに、人が森から離れたことにある。それを私は、伝統的な人と森との関係の危機だと思うのである。こんな気持ちをいだきながら、私は二〇〇八年を迎える。まずは村の維持だ。村が維持されれば、村人は必ず森との関係をつくりなおすと信じながら。
「NPO法人森づくりフォーラム」HPより
長い歴史の中で変わらないのは森を利用した生活や労働、そして自然に対する畏敬の念や信仰だと内山節先生は言います。
ところが、現代では人々が森林から離れてしまった。それは森林利用の危機なんだと訴えてるんですね。
村が維持されれば新しい人と森との関係が生まれてくると考え、上野村へ人を呼び戻そうとされています!
ん~難しくてなに言ってんだかわかんない
うちのじいちゃん、山に入らないしうちの竹やぶだってもう誰も入れないくらいだし…山なんて税金かかるだけだっていつも言ってる
確かに難しいかも…
でもね、内山先生のこの写真を見てください!この写真から本当に山に住んでいる人の服装だと分かりますよね!
あ~田舎のじいちゃんも着てる!
私も小さい頃、半纏を愛用してましたよ!本当に山里に住んでみないとこの良さが分からないんです!あったかいんですよ!厳しい自然の中だからこそ味わえる暮らしがあるんです!
へ~、でもうちは便利な都会に住みたい!
みんなそう言ってるもん!
確かにね…
まだ、これからのことは予測できませんが、もしこのままコロナが収束しなかったり変異種がまた流行したら東京などの都会で子育てできるんでしょうか…?
それ、マジで不安…
自然と共にある生活は自然からのたくさんの学びの場です!
本当の教育がそこにあるんですよ
お金を稼ぐためには田舎ではムリだと思うと都会へ出るようになりますが本来の理想はどこにいても自分のやりたいこと、楽しいことから収入を得て自由に楽しく生活することです!
福島の霊山にある「りょうぜん里山がっこう」などはそれを疑似体験できる場です!「SATOYAMA」は世界共通語になっているとアファン財団のHPにも書いてありましたね!
ここでご紹介した二人は私の学校構想の根幹をなす「自然からの学び」を実践している方々でした。
特にC.Wニコルさんの「アファンの森財団」についてはInstagramで小澤義明さんにご紹介をいただいたことがきっかけで知ることになりました。心より感謝申し上げます。
まとめ
自然との関わりは人間が自然と会話したりコミュニケーションしたりできるものではありません
言葉による相互理解は存在しないもので人間の欲を満たそうとするなら自然との関わりにおいて必ず何らかの犠牲を要求されます
それは肉体労働であったり時間を提供することであったりストレスフルなことである場合がほとんどです
そこを乗り越えた時、自然は私たちにこれ以上ないほほえみをもって恵みをもたらします
お金でなんでも手に入れることを覚えた現代人にはきっと思いもよらないことがたくさんあるでしょう
そういう体験をするからこそ一体感や連帯感が生まれ仲間となるのです
そういう状況でこそ真の教育が成り立つのです
今回は二人の先人をご紹介しました
私の考える「自然との関わりの意義」について再認識いただけたら幸いです