問題の分析
問題と要約
《第一問》 要約
この文章は、音楽と宗教行事の関係性、特にモーツァルトの《レクイエム》がウィーンの聖シュテファン大聖堂で演奏された際の体験について考察しています。モーツァルトの没後200年を記念するこの追悼ミサは、音楽と宗教行事の両方の要素を含んでいました。しかし、一部の聴衆は、典礼の部分が音楽の邪魔になると感じ、音楽部分だけを聴きたいと考えていました。これに対して、他の人々は、音楽と典礼が一体となった全体的な体験が重要だと主張していました。
この議論は、音楽と芸術がどのように認識され、体験されるべきかという広範な問題につながります。音楽と芸術は、特定のコンテクストから切り離されて鑑賞されることが多い現代社会において、その本来のコンテクストに戻す動きが見られます。しかし、その結果として、音楽や芸術の概念がさらに広がり、あらゆるものが「音楽化」や「芸術化」される傾向があります。
この文章は、音楽や芸術が「ある」ものではなく、「なる」ものであるという視点を提供しています。つまり、音楽や芸術は、特定の歴史的・文化的コンテクストの中で形成され、変化し続けるものであり、その過程やメカニズムを理解することが重要であると主張しています。また、音楽や芸術が国境を越えて世界を一つにするというグローバリズムの論理についても警戒を呼びかけています。この文章は、音楽と芸術の本質とその社会的な役割について深く考えるための洞察を提供しています。
AI読解法
文章の骨組み
起:モーツァルトの没後200年と音楽と宗教行事
1991年はモーツァルトの没後200年で、その命日にウィーンの聖シュテファン大聖堂でモーツァルトの《レクイエム》の演奏が行われました。この演奏はゲオルク・ショルティが指揮し、ウィーン・フィルとウィーン国立歌劇場の合唱団などが出演しました。この演奏は、モーツァルトの没後200年を記念する追悼ミサという宗教行事であり、音楽でもあり、宗教行事でもある典型的な例でした。
承:モーツァルトの《レクイエム》と聴き手の認識
この音楽作品を中心に話が展開します。モーツァルトの《レクイエム》をどのように認識するかが問われています。あるCDショップのウェブサイトでのレビューが引用されています。キリスト教徒でない一般の音楽好きにとって、典礼の割り込みは辟易とするものであるという意見が述べられています。
転:典礼の全体の体験と十九世紀的な悪弊
この音楽作品は「音楽」である以前に典礼であると述べられています。聴き手が音楽部分だけをつまみ出して聴くという認識は本末転倒だと主張されています。典礼の全体を体験してこそその意味を正しく認識できると述べられています。音楽を、コンテクストを無視してコンサートのモデルで捉えるというのは十九世紀的な悪弊にすぎないと主張されています。
結:音楽と典礼の関係と複合的な問題性
特定の主張が一面的な真理であると認識しています。十九世紀に音楽が典礼から自立したという観点が提出され、その後、音楽が本来のコンテクストに戻る動きがあると述べています。「音楽」や「芸術」は最初から「ある」わけではなく、「なる」ものであるということです。しかし、この問題は単純な二分法的ストーリーに収まるものではないと指摘しています。物事には見方によっていろいろな側面があると認識し、音楽か典礼かという二元的な議論では話が片付かないと述べています。最も重要なのは、ここでの問題が音楽と典礼という二項関係の説明に収まらない、複合的な性格を持つ現代的な問題であると認識しています。「音楽」や「芸術」という概念を繰り返し使っているうちに、それがいつの間にか本質化され、最初から「ある」かのような話にすり替わってしまいます。これは紙幣を繰り返し使っているうちに、それ自体に価値が見えてくる錯覚と同じです。その結果、気がついてみたら、「音楽は国境を越える」、「音楽で世界は一つ」という怪しげなグローバリズムの論理に取り込まれていたということにもなりかねません。
問6(ⅱ)の解法
「それは、単に作品の舞台に足を運んだということだけではなく、現実の空間に身を置くことによって得たイメージで作品を 自分なりに捉え直すということをしたからだろう。」は下の(a)(b)(c)(d)のどこに入るか?
「本文では現実を鑑賞の対象とすることに注意深くなるよう主張されていた。しかし、ここでは作品を現実世界とつなげて鑑賞することの有効性について自分自身の経験を基に考えてみたい。小説や映画、漫画やアニメの中には、現実に存在する場所を舞台にした作品が多くある。そのため、私たちは作品を読み終えたり見終わったりした後に、実際に舞台となった場所を訪れることで、現実空間と作品をつなげて鑑賞するこ とができる。最近、近くの町がある小説の舞台になっていることを知った。私は何度もそこに行ったことがあるが、これまでは何も感じることがなかった。ところが、小説を読んでから訪れてみると、今までと別の見方ができて面白かった。(a) このように、私たちは、作品世界というフィルターを通じて現実世界をも鑑賞の対象にすることが可能である。(b)一方で、小説の舞台をめぐり歩いてみたことによって小説のイメージが変わった気もした。(c) 実際の町の印象を織り込んで読んでみることで、作品が新しい姿を見せることもあるのだ。(d) 作品を読んで町を歩くことで、さまざまな発見があった。」
この文章は、「小説の舞台をめぐり歩いてみたことによって小説のイメージが変わった気もした」という文と「実際の町の印象を織り込んで読んでみることで、作品が新しい姿を見せることもあるのだ」という文の間、つまり(c)の位置に最も適していると思います。その理由は、この文章が現実の空間に身を置くことによって得たイメージで作品を自分なりに捉え直すという経験について述べているからです。これは、小説の舞台を実際に訪れることで小説のイメージがどのように変わるかを説明する文脈に適しています。
したがって、文章全体は次のようになります:「本文では現実を鑑賞の対象とすることに注意深くなるよう主張されていた。しかし、ここでは作品を現実世界とつなげて鑑賞することの有効性について自分自身の経験を基に考えてみたい。小説や映画、漫画やアニメの中には、現実に存在する場所を舞台にした作品が多くある。そのため、私たちは作品を読み終えたり見終わったりした後に、実際に舞台となった場所を訪れることで、現実空間と作品をつなげて鑑賞することができる。最近、近くの町がある小説の舞台になっていることを知った。私は何度もそこに行ったことがあるが、これまでは何も感じることがなかった。ところが、小説を読んでから訪れてみると、今までと別の見方ができて面白かった。(a) このように、私たちは、作品世界というフィルターを通じて現実世界をも鑑賞の対象にすることが可能である。(b)一方で、小説の舞台をめぐり歩いてみたことによって小説のイメージが変わった気もした。(c)それは、単に作品の舞台に足を運んだということだけではなく、現実の空間に身を置くことによって得たイメージで作品を自分なりに捉え直すということをしたからだろう。実際の町の印象を織り込んで読んでみることで、作品が新しい姿を見せることもあるのだ。(d) 作品を読んで町を歩くことで、さまざまな発見があった。」